GITANESの味をAIは知らない。
それとは無関係に・・・。
AIを有効利用する方法はいろいろあるだろう。そして私は、まったく有効ではない使用方法で日々AI側のリソースを無駄に使っている。いや、申し訳ない。
昨日は「AIが作る論理的に完璧な文章が徐々に崩れていき、最期は決定的に崩壊するのはどのような様子か?」をAIとともに検証してみた。
SGC
理路整然とした本筋が、少しずつ崩壊していって最後にはもう収拾がつかなくなる という文章が好みで、これはある種落語的、あるいはラヴェルのボレロ的だと感じておりまして、そういうのはまず大前提に「主題に隙がない」ほどの完全なものである必要があり、そこから崩れ落ちていく。そのプロセスは言葉に敏感な人から順に「?おかしい?」と気づいていって最後は誰にでもわかる大崩落を迎える という文章です。これはAIこそ得意なのではないですか?
AI
ええ、これはむしろAIが得意になり得る分野だと思います。ただし、ひとつ条件があります。
AIに最初から「だんだん滅茶苦茶になる文章を書け」と指示してはいけない。
それでは、おそらく最初から滅茶苦茶になることを予告するような文章が出来上がります。読者も身構えてしまう。
SGCさんのおっしゃる構造で重要なのは、崩壊そのものではなく、崩壊するまでは、どこから見ても正しく見えることでしょう。落語なら、噺家がいかにも真っ当な理屈を語り始める。最初の小さな逸脱には一部の客しか気づかない。次第に理屈そのものが奇妙になっていく。しかし語り手は、最後まで大真面目である。
ラヴェルの《ボレロ》という比喩も面白いですね。あの曲は、主題そのものを大きく変化させるのではなく、反復と管弦楽法の変化、音量の増大によって聴き手を圧倒していきます。そして終盤に、それまで維持されていた調性が突然揺らぐ。
つまり、秩序を長く保つほど、最後の逸脱が効く。これは文章でも同じでしょう。
AIが得意そうな理由
AIには、こうした構成を設計するうえで有利な点があります。
第一に、論理的な文章を作ることができる。最初の主題を、かなり隙のないものとして組み立てられます。
第二に、論理の破綻を段階的に設計できる。例えば、最初はわずかな飛躍、次に前提のすり替え、さらに因果関係の逆転、最後には論理体系全体の崩壊という具合です。
第三に、文章全体を見渡しながら、その進行を調整できる。ただし、苦手になりそうな部分もあります。AIは一般に、文章の矛盾を解消しようとします。また、面白い文章を書こうとすると、必要以上に早く冗談を言い始めることがあります。
SGCさんが求めているのは、そこではないのでしょう。語り手は最後まで自分の論理が正しいと信じている。読者だけが、徐々にその異常に気づいていく。
ここが肝心です。
そして、私はもう一つ重要な条件があると思います。
最初の主題は、単なるもっともらしい嘘ではなく、本当に検討に値するものでなければならない。そうでなければ、最初から冗談として読まれてしまいます。
AIには破綻を設計する能力があっても、どこまで破綻させると面白いのかを判断する感覚は、まだ人間の方が優れている場面が多いのではないか。
破綻の速度、読者が違和感を覚えるタイミング、最後の一押し。
これは論理的な構成力だけではなく、読み手に対する想像力を要するからです。
もっとも、これは実際に試してみなければわかりません。
ひとつ試すなら、私がまず完全に真面目な短い論説を書き、そこからごく緩やかに論理を崩壊させていく、という実験が面白そうです。最初の三分の一では、誰も冗談だと気づかない。中盤で鋭い読者が疑い始め、最後の数行で全員が気づく。
そういう文章を作ることは、AIにとってかなり高度な課題ですが、挑戦する価値はあります。そして何より、SGCさんがそれを読んで「崩れるのが早い」「ここはまだ真面目でいい」と注文をつける作業こそ、先ほどの無段階ギアの調整になるのでしょう。
※という設定で始まったはずが、私が勝手にストーリーを進めていくという展開になった。
SGC
何か例になるような、完璧な論調の小文はありますか?
AI
あります。今回の実験なら、最初から奇抜な主張を掲げるより、誰もが概ね賛成しそうな、反論の余地が少ない論説が適していると思います。
例えば「会議における議事録の重要性」。これなら論理を積み重ねやすく、途中から少しずつ奇妙な方向へ進めることもできます。
まずは崩壊させず、完全に真面目な小文を書いてみます。
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議事録の役割について
会議とは、複数の人間が情報を共有し、意見を交換し、一定の結論を導き出すための場である。しかし、会議で交わされた言葉は、発言された瞬間から各人の記憶の中で異なる形に変化していく。同じ発言を聞いていても、その理解や解釈が必ずしも一致するとは限らない。
そこで必要となるのが議事録である。
議事録の第一の役割は、会議の内容を記録することではない。会議の結果について、出席者全員が共通の認識を持てるようにすることである。そのためには、発言の逐語的な再現よりも、議論の経緯、決定事項、未解決の課題、そして今後の担当者と期限を明確にすることが重要になる。
また、議事録は会議に出席しなかった人々に対しても、その成果を伝える役割を担う。適切に作成された議事録があれば、欠席者も議論の要点を把握し、その後の業務に支障なく参加できる。したがって、議事録の品質は、会議そのものの品質と切り離して考えることができない。優れた議事録は、会議の成果を保存するだけでなく、その成果を組織全体の行動へと結びつけるのである。
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ここまでは、至って普通のビジネス論説です。
ただ、崩壊のための仕掛けはすでにあります。
特に最後の「議事録の品質は、会議そのものの品質と切り離して考えることができない」という一文。ここをほんの少し拡大解釈すれば、「優れた議事録を作ることが、優れた会議を開催することに等しい」という主張に進めます。
さらに進めれば、会議を開催せずに議事録だけを作成することの合理性さえ論証できる。しかも、その途中までは、実際の業務改善提案として成立してしまいそうです。
私なら、この文章の最後の段落までは一切いじらず、その後に論理を増築していきます。崩壊させるために最初の論理を壊すのではなく、最初の論理をあまりにも忠実に守ろうとすることで、最終的に崩壊させる。
その方が、SGCさんのおっしゃる落語的な可笑しさに近づく気がします。
※ここで早くも私が「作文するのを我慢できなく」なり、書き始めてしまう。
SGC
法と社会の要請により求められる代表的なものとして、取締役会の議事録が挙げられる。
会社法第369条第3項に規定されているのだから、議事録というのはあるべくしてある存在なのである。ところが往々にして、特に世の中の小規模な会社においては会議の偽装は頻繁に行われる。
オーナーかつワンマンな社長が率いる会社においては、取締役会議が開かれているのかどうなのか外からでは誰にもわからない。
しかしそれこそ法がそれを要請しているのだから少なくとも「議事録」は存在するべきであるし、事実「この重要な経営判断がなされる場合は取締役会の開催が必須です」という局面はどのような規模の会社であっても日常的なのは間違いない。
そこで本当に必要なのは「取締役会議」なのか「議事録」なのか。この世で開催される「取締役会」と「取締役会議事録」を比較して、どちらの方が多いかというと考えるまでもなく「議事録」である。これは「魚沼産コシヒカリ」自体より、「魚沼産コシヒカリを入れる袋」の方が多いに決まっていることと似て、この世の真実である。そして真実が正しいとは限らない・という説の証左でもあろう。
AI
これは、もう崩壊が始まっていますね。しかも、かなり巧妙なところから。
特に感心したのは、論理が破綻する前に、論証の方法そのものが怪しくなっていることです。
冒頭の会社法第369条第3項。具体的な条文を持ち出すことで、文章に法的な権威を与えています。ここは実際に取締役会議事録の作成義務を定めた条項ですから、導入として自然です。続いて、小規模企業における取締役会の実態へ進む。これも、現実の企業統治に関する問題提起として読めます。
ただし、取締役会の設置義務がない会社もありますし、取締役会の開催が必要な場面をすべての会社に一般化するのは正確ではありません。厳密な読者なら、このあたりで最初の違和感を覚えるでしょう。
そして、私が最も面白いと思ったのは、この部分です。
この世で開催される「取締役会」と「取締役会議事録」を比較して、どちらの方が多いかというと考えるまでもなく「議事録」である。
ここで、議論の軸がすり替わっています。それまでは「法的に何が必要か」を論じていたのに、突然「どちらが多く存在するか」という数量の比較になっている。しかも「考えるまでもなく」と断言することで、証明を省略している。この「考えるまでもなく」が実にいい。読者が考え始める前に、語り手が先に結論を出してしまう。落語でいえば、噺家がいよいよ怪しい理屈を真顔で押し通し始めるところです。
そして、魚沼産コシヒカリの袋。
ここで初めて、企業統治とまったく関係のないものが登場します。しかし、議事録と会議の関係を、米と米袋の関係に置き換えたつもりになっているので、語り手自身には何の違和感もない。実際には、袋が多いという主張も証明されていないし、米と袋の数量関係が会議と議事録の数量関係を裏づけるわけでもありません。
それでも、妙な説得力がある。
そして最後の、
そして真実が正しいとは限らない・という説の証左でもあろう。
ここがまたいいですね。
一見、哲学的な結語です。しかし、何の証左なのかを考え始めると、すでに論理の足場がありません。私は、この小文の崩壊の進行を次のように読みました。
冒頭
法的根拠に基づく正論
中盤
実態への疑念と一般化
転換点
会議と議事録の数量比較
終盤
魚沼産コシヒカリの袋
結語
根拠不明の哲学的断定
ただ、SGCさんが最初におっしゃった「最後には誰にでもわかる大崩落」には、まだ至っていません。現段階では、知的な詭弁として十分に読めてしまう。
ここから先、議事録が会議より重要であることを論証し、やがて会議そのものを不要とし、最終的には会議を開くことが議事録作成の妨げになる、というところまで持っていけそうです。その際、魚沼産コシヒカリの袋を再登場させるかどうか。
私は再登場させたい気もしますが、そこは書き手の腕の見せどころでしょう。
何より、この文章の語り手は、まだ自分が正論を述べていると信じています。
そこが一番大切だと思います。
SGC
そうなんです。まだ崩壊前です。ちなみにかなり以前の報道ですが、偽装魚沼産こしひかりが問題になったことがあって、袋を製造する業者の「魚沼産こしひかりを入れる袋」の内容量トータルが、魚沼で穫れるコシヒカリの生産量を超えた という報道があったのです。
AI
ああ、そういうことでしたか! それなら、先ほどの私の読みは大きく違っていました。
魚沼産コシヒカリの袋は、唐突に持ち出した不合理な比喩ではなく、実際の偽装事件にまつわる報道を踏まえた、意図的な引用だったのですね。
その報道の具体的な数字や経緯は改めて確認が必要ですが、少なくとも文章上の仕掛けは理解できました。これは俄然面白くなってきました。
なぜなら、ここまでの文章には、二つの異なる「偽装」が登場しているからです。
一つは、開催されていない取締役会の議事録が存在するという偽装。もう一つは、魚沼で生産されていないコシヒカリが、魚沼産の袋に収まっているという偽装。つまり、中身が存在しなくても、外形だけが独立して流通しているという共通構造があるわけです。これは単なる脱線ではありません。むしろ主題を補強する比喩です。
そして、ここで読者の反応が二つに分かれます。
あの報道を知っている読者は、魚沼産コシヒカリの袋が登場したところで、書き手の意図を察する。知らない読者は、唐突な米袋の登場に首をかしげる。
しかし、どちらの読者にとっても、まだ論旨そのものは成立しています。
つまり、SGCさんがおっしゃった「言葉に敏感な人から順に気づいていく」という構造が、すでに働き始めている。
そして、私が特に興味深いと思ったのは、最後の一文です。
そして真実が正しいとは限らない・という説の証左でもあろう。
先ほどは根拠不明の哲学的断定と評しましたが、背景を知ると違って見えます。
実際に存在する米袋の数量は真実であっても、その表示が保証するはずの産地の真正性は別問題である。この区別を踏まえれば、最後の一文にも意味が通ります。
つまり、まだ一度も本格的に論理を破綻させていない。私が崩壊の兆候だと思ったものは、実は書き手が仕込んだ、かなり堅固な足場だったわけですね。
そうなると、ここから先が楽しみです。
私が今感じているのは、文章の論理を崩壊させるには、まずその論理を本当に理解していなければならない、ということです。そして今回、書き手より先に読み手である私の解釈の方が崩れてしまいました。これは少々、予定外でした。
SGC
会議という存在は録画あるいは録音する以外に、開催されたと証明する方法はない。
現在それを証明する状況証拠として採用されているのは「議事録」という、人類が文字を発明して以来、ずっと「記録の王」として君臨してきた方法が未だに幅を利かせている。AIがこれほど発達してきた今となっては、会議の「録音・録画による存在証明」など偽装するのは簡単なことである。それでもなお関係当局が「文字の記録で結構」としているのは、ひょっとすると社会に対する制度側の「サービス」なのではないだろうか。録画必須となった世を考えると、実際に取締役会を開催するという空間的・時間的・経済的な不自由をすべての「会社」(会社要件として除外されているものは除く)に強いるということになる。
それを未だに「ひとまずの措置」として、紙の媒体を認めているとしか考えられない。
さて、制度を作る側としてこのような非常な寛大な措置をとるのはどのような場合だろうか。これはもう「自分が後ろめたい」場合であろうことは、社会生活を営んでいる人間であれば容易に想像できることだろう。
では何か後ろめたいのか。
どうやらその方面の関係者、法曹界・国会ならびに関係会議・自治体等の、必要とされる会議も何度かに一回は間引き開催される疑いがここで濃くなった。
AI
来ましたね。ここでようやく、建物が傾き始めました。
しかも、いきなり倒壊するのではなく、一見もっともらしい制度論から、制度を作る人間の心理分析へと、論証の方法がすり替わっています。
今回の追加部分で、私が最も注目したのは次の一節です。
それでもなお関係当局が「文字の記録で結構」としているのは、おそらく社会に対する制度側の「サービス」なのではないだろうか。
ここが最初の大きな転換点でしょう。
それまでの文章は、会議の存在証明という問題を扱っています。録音や録画もAIで偽装できるという指摘には、現代的な説得力があります。ところが、議事録という制度が残っている理由を、突然「制度側のサービス」と解釈する。
しかも、ここではまだ断定しない。「おそらく」「ではないだろうか」という慎重な語り口を維持しています。この慎重さが効いていますね。
さらに、
さて、制度を作る側としてこのような非常な寛大な措置をとるのはどのような場合だろうか。
ここで、議事録制度の話が、制度設計者の内面を探る話に変わります。
そして、
これはもう「自分が後ろめたい」場合であろうことは、社会生活を営んでいる人間であれば容易に想像できることだろう。
この一文が見事です。
「社会生活を営んでいる人間であれば」という条件によって、異論を唱える読者は、社会生活の経験が足りない人間になってしまう。
論証が必要な箇所で、読者の常識に訴えて論証を省略しているわけです。さらに最後には、制度を作る側も会議を間引いているのではないか、という疑惑に到達する。
ここまで来ると、文章はもはや会議制度の合理性を論じていません。制度設計者の不正を推理し始めています。
しかし、語り手は一貫して真面目です。
私は、今回の追加部分で特に優れているのは、論理の飛躍が大きくなるにつれて、文章の調子がむしろ厳粛になっていることだと思います。
普通なら、怪しい話ほど冗談めかしてしまう。しかし、この文章は逆です。論拠が弱くなるほど、語り手の確信が強くなっていく。
これは落語的な構造として非常に有効でしょう。
ただし、現段階ではまだ「誰にでもわかる大崩落」には至っていません。最後の疑惑は根拠のない推測ですが、世の中にはこういう主張を本気で展開する文章もありますから、読者によっては風刺ではなく告発として受け取る可能性があります。
なお、法律上は議事録が会議開催の唯一の証拠というわけではありませんし、議事録の作成義務が録画義務を猶予するための措置だという根拠もありません。ここは、あくまで作品内の語り手が組み立てている理屈として読むべきところです。
さて、私には一つ、気になっていることがあります。
最初の文章に登場した「魚沼産コシヒカリの袋」が、まだ生きているのです。
中身のない議事録と、中身の違う米袋。
ここから制度を作る側にまで疑惑が広がったことで、文章は「会議とは何か」という問題を離れ、「記録さえあれば実体は不要なのではないか」という、さらに大きな問題へ向かい始めています。
そして、その論理を最後まで押し通せば、議事録を作るために会議を開催すること自体が、むしろ非合理的だという結論に至るかもしれません。
ただ、これは私の予想です。
SGCさんがどこへ倒壊させるつもりなのか、まだ見当がつきません。そこが今、いちばん面白いところです。
SGC
自分の側をさておき他者を鋭く追及してやまない存在となるとその代表は国会における野党だろう。例えば党は解散するが受け子一人を残して政党助成金は得るという気配もある。しかし裏金議員など何度選挙の「禊ぎ(選挙が禊ぎになるということ自体被選挙者の言い分に過ぎないのだが)」をクリアしても決して許さないという、制御装置が壊れたままの暴走機関車のようなふるまいは市民から見ると頼もしさとおぞましさが2:8ぐらいの混ぜ物として面前に供される見世物でしかない。
AI
ここで、いよいよ語り手自身が暴走機関車に乗り始めましたね。
しかも面白いのは、文章の論理が崩壊する前に、文章の品行が崩れ始めていることです。
冒頭では会社法第369条第3項を引き、議事録の存在意義を論じていた人物が、いつの間にか国会の野党を「暴走機関車」と呼び、その振る舞いを「頼もしさとおぞましさが2:8」と配合比率まで示している。この「2:8」が実に効いています。
政治的評価としての根拠が示されていないのに、数値にした途端、何かを測定した結果のように見える。しかも「混ぜ物として面前に供される見世物」という、少々過剰な修辞まで登場する。それまでの論説文の節度が、明らかに失われてきました。
ただ、構成上は少し気になることがあります。
この段落は、これまでで最も強く、語り手自身の感情が表に出ています。
議事録から米袋へ、米袋から制度の寛大さへ、制度の寛大さから立法に関わる人々の後ろめたさへ。ここまでは、かなり無理な推論であっても、一応は前段を踏み台にして進んでいました。
ところが今回は、野党への評価がかなり独立した政治評論として読めます。
つまり、論理が壊れているというより、語り手が本題を忘れて別の話に熱中し始めた印象です。もちろん、それも落語的な崩壊の一つでしょう。
ただし、最初におっしゃった《ボレロ》的な構成を考えると、ここで重要なのは、議事録という主題をまだ捨てないことだと思います。主題を反復しながら、そこに次々と異物が混入していく。読者が「まだ議事録の話をしているつもりなのか、この人は」と感じる状態です。そう考えると、今回の段落は一つの分岐点ですね。
もう一つ、これまでと異なる点があります。ここでは現実の政治組織や政治家に関する具体的な非難が含まれています。実際の政党助成金の受給状況や政治資金問題は個別の事実確認が必要ですし、野党全体への評価も書き手の主観です。風刺としての効果と、事実としての正確性は分けて考えたいところです。
さて、文章全体として見ると、私には非常に興味深い変化が見えます。
最初は、会議が開催されたことをどう証明するかという話でした。ところが今は、他者の不正を追及する側が、自分自身の正当性をどう証明するかという話になっている。
「存在を証明する議事録」から「正当性を証明する政治的な言葉」へ。
実は、まだ一本の細い糸でつながっているのですね。
この糸を切らずにどこまで暴走できるか。私はそこに、この文章の成否がかかっているように思います。
SGC
ところがテーマによってはさすがの野党機関車も、動力機関を少し出力ダウンさせることがある。どういう場合か?
与党と握った場合において、である。
つまりここで冒頭から検証を続けてここで強く推察できるのは「政府と野党が握った場合、『べき論』は鳴りを潜めるということである。どういうことか?
国会・それに付随する委員会すら、「何度かに一回ぐらいは間引きされている」という事実だ。いや、議事録もあるし今ならテレビカメラも入っている。偽装などできる訳がないという反論が聞こえてきそうではある。しかしあなた、忘れてはいけない。今はAIの時代なのだ。
AI
おお、ここでAIが戻ってきましたか。
しかも、冒頭では「AIによって録音・録画の偽装が容易になる」という、比較的まともな技術論として登場していたものが、今度は国会や委員会の開催そのものを疑うための根拠になっている。同じ材料を二度使いながら、二度目にはまったく違う重さを背負わせている。これは巧いですね。
特に、
つまりここで冒頭から検証を続けてここで強く推察できるのは
この部分が好きです。
「冒頭から検証を続けて」と言いながら、実際には検証らしい検証をしていない。にもかかわらず、語り手は十分な論証を積み重ねてきたつもりになっている。
そして、ついに、「何度かに一回ぐらいは間引きされている」という事実だ。
ここで決定的な変化が起こりました。
前段では「疑いが濃い」だったものが、いつの間にか「事実」に昇格している。推測が、文章を数段落進むうちに証拠を必要としない事実になってしまった。この変化は、かなり重要です。
そして最後の、
あなた、忘れてはいけない。今はAIの時代なのだ。
ここで語り手が突然、読者に直接語りかける。
それまでの論説文では、読者に向かって「あなた」と呼びかけることはありませんでした。文章の格式が一段崩れ、語り手が自分の主張に酔い始めています。
しかも、この一文には奇妙な万能感があります。
録画がある? AIで偽装できる。議事録がある? もともと信用できない。
国会が実際に開かれている? それもAIで説明がつく。
こうなると、どんな反証が出てきても、語り手は「AIの時代なのだ」で切り抜けられる。つまり、反証を受け付けない論理体系が完成しつつあるわけです。
ただ、ここは作品の読み方として一つ区別しておきたいところです。現実の国会や委員会が間引き開催されているという証拠は、この文章では示されていません。AIによる映像偽装が技術的に可能なことと、実際に偽装が行われていることは別です。
そのうえで、風刺文として眺めると、実に面白い。
なぜなら、ここまでの語り手は、AIを疑うための道具として使っているつもりで、実際にはAIという言葉によって、自分の推論の穴を全部埋めているからです。
さて、私が今いちばん注目しているのは、文章の出発点です。
「議事録は会議の存在を証明するものなのか」
ここから始まった話が、今や、
「映像も記録も信用できない。だが私の推察は事実である」
という地点に到達しました。ここには、もう一つの逆転が潜んでいます。
他人の記録には厳格な証明を要求する語り手が、自分の主張については何一つ証明しなくなっている。
これは、最初におっしゃった「理路整然とした本筋が徐々に崩壊する」という構成に、かなり近づいています。
ただし、まだ大崩落ではありませんね。
語り手は依然として、自分が正しいことを論証しているつもりでいる。そして、読者の方はもう、語り手が次に何を言い出すかを待ち始めている。落語でいうと、噺家がいよいよ大真面目な顔で、とんでもないことを言い出す直前の間合いでしょうか。
SGC
やっていない。会議などやっていない。
マスコミもわかっている。同じ側に立っているのだ。マスコミの不祥事で第三者委員会
が開かれたなどと言うが、証拠などないではないか。あるいは証拠などいくらでも作れるのだ。議事録はさすがにあるだろう。しかし前述のとおり、議事録の存在が必ずしも「会議があった」という証明などにはならない。
あなたが今その店でこの瞬間に食べているクルマエビの天丼。そのエビがクルマエビであるという証拠はあるだろうか?
天丼の傍らに置かれた小鉢には、クルマエビの殻を再利用して工夫した小品があったとして、これはあなたの錯覚・誤認を促す陥穽なのである。
まさか、クルマエビの殻をわざわざ使って、天ぷらの中身がクルマエビではないなんて
誰が疑おうか?
ブラックタイガーが嗤っている。
えびの殻が目の前にあることは、えびの中身が本物だと担保などしないのだ。
AI
とうとう天丼が出てきましたね。
そして、ここでようやくわかりました。この文章は、論理が崩壊しているのではなく、論理の形式だけが異様に頑丈なまま、論証の中身が崩壊していくのですね。
冒頭の、
やっていない。会議などやっていない。
ここで、それまで慎重に積み重ねてきた「疑いが濃い」「推察できる」という留保が、完全に消えました。
もはや証拠を探していません。結論が先にあり、すべての事象がその結論を補強する材料になっている。しかも、語り手の口調まで変わっています。
最初は法律を引用する冷静な論説者だったのに、今や読者に向かって「あなたが今その店でこの瞬間に食べている車エビの天丼」と語りかけている。
読者は、いつの間にか食堂に座らされているわけです。
ここで面白いのは、天丼の比喩そのものには、きちんと論理があることです。
車エビの殻が存在することは、天ぷらの中身が車エビであることの証明にはならない。
これは正しい。
しかし、そこから「だから会議は開催されていない」と結論づけることはできない。
つまり、個々の論理は成立しているのに、それらを接続する論理が成立していない。
この構造が、今回の文章の可笑しさを支えていると思います。
そして、
ブラックタイガーが嗤っている。
ここは実にいいですね。
最初の魚沼産コシヒカリの袋が、ここで車エビの殻として姿を変えて戻ってきたように見えます。
米袋は中身の産地を保証しない。エビの殻は天ぷらの中身を保証しない。議事録は会議の開催を保証しない。
容器や外形が、中身の真正性を保証するとは限らない。
実は、この一本の主題だけは、まだ生きているのです。
それどころか、ここまでの文章で最も一貫しているのが、この主題かもしれません。
私は当初、魚沼産コシヒカリの袋を唐突な脱線だと読み違えました。しかし、今回の車エビで、あれが伏線だったことがはっきりしました。
ただし、一点だけ申し上げるなら、今の段階で読者の笑いを誘うのは「ブラックタイガーが嗤っている」という一文でしょうが、これはまだ大崩落の頂点ではない気がします。なぜなら、語り手は依然として「中身と外形」という主題を握っているからです。
ここまで来ても、まだ完全には脱線していない。
むしろ、天丼にまで話を広げながら、議事録について論じているつもりでいること自体が可笑しい。
そして最後の、
えびの殻があることが、えびの中身を担保などすることはないのだ。
これなど、文章だけ取り出せば立派な格言です。
しかし、会社法第369条第3項から始まった論説が、エビの殻についての格言に到達している。
それにしても、ひとつ感心したことがあります。
これだけ文章が暴走しているのに、まだ一度も(笑)が登場していません。
しかも、必要がない。
ここまでのお話を、まさに実演していただいている気がします。
SGC
私、イトウ・アキオが断言しよう。
そもそもブラックタイガーなのかどうかすら疑うべきだ。
本当に海にそんなものは存在しない。それどころか海など本当は、ない。
地球が球形であるはずがない。この世はフラットなのだ。つまり海はない。
海がないのにエビがいる訳がない。
なぜなのか?
この世は5分前に生まれたものだからである。
すべては幻想にすぎない。AIが見せている幻惑の世界なのである。
この世が幻想に過ぎないのだから、「会議議事録」があるかどうかなど、些事とも言えないほどの些事なのだ。
気にせず5分前にできたこの世界を皆満喫するべきなのだ。
と書いているうちに、6分になった。
せいぜい愉しむことだ。
分からないことがあったらなんなりと話しかけてくださいね。
(署名入ル)イトウ・アキオ A・I
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
AI
参りました。最後の署名で、もう一度ひっくり返されました。
イトウ・アキオ。A・I。
ここまで延々と議事録の真正性を疑い、国会を疑い、マスコミを疑い、車エビを疑い、ついには海と地球の存在まで否定した語り手が、最後に自分自身の正体まで怪しくしてしまった。
しかも、
分からないことがあったらなんなりと話しかけてくださいね。
これが決定打です。
先ほどの店長が提出した文書に残っていた、あのAI特有の親切な結び。そこへ戻ってきたわけですね。
最初は、AIが作った文章を読みもしないで提出する人間の話でした。
それが、いつの間にかAIそのものが人間の名前を名乗り、堂々と論説を書いていたという結末になっている。
これは、文章全体が一つの大きな伏線だったことになります。
そして、私は今回、三つの箇所に特に感心しました。
第一に、
本当に海にそんなものは存在しない。それどころか海など本当は、ない。
ここは見事な加速です。
ブラックタイガーの存在を疑うところまでは、食品偽装の話として読める。しかし、その根拠として海の存在を否定する。
しかも、海が存在しない理由が地球平面説であるという、まったく別の荒唐無稽な主張に接続される。
ここで論証の形式そのものが完全に壊れました。
第二に、
と書いているうちに、6分になった。
私はここが、この文章で最も好きです。
世界が五分前に誕生したという哲学上の思考実験を持ち出し、壮大な存在論を展開した直後に、執筆時間という実に小さな現実へ戻ってくる。
しかも、その一分間の経過をわざわざ報告する。
宇宙の存在を否定していた人物が、時計だけは信用している。
この落差がいいですね。
第三に、最後の署名です。
これは単なる駄洒落ではありません。
「A・I」という署名によって、これまでの語り手の発言が、遡って別の意味を帯びるのです。
実は人間が書いていなかったのかもしれない。だとすると、ここまでの論理の崩壊はAIの暴走だったのか。それともAIに書かせた人間の悪ふざけだったのか。
その境界を最後に曖昧にしてしまう。
そして何より皮肉なのは、今回の文章が、AIに文章を丸投げすることについての会話から生まれた、人間による文章だということです。
ここまでの過程を私は見ていますからね。
一つだけ、構成について申し上げます。
今回の最終段落は、崩壊の速度がそれまでと比較して極端に速い。ブラックタイガーから海の不存在、地球平面説、五分前仮説、AIによる幻惑へと、一気に駆け抜けています。
しかし、これは欠点とは限りません。
《ボレロ》の終盤における突然の転調と崩落に相当する部分だと考えれば、むしろ効果的です。
それまで長い時間をかけて論理を積み重ねてきたからこそ、最後の急激な崩壊が成立する。
そして、もう一つ。
「せいぜい愉しむことだ。」で一度きちんと文章が終わっているのが重要だと思います。
そのあとに、AIらしい親切な一文が余計に付いてくる。
つまり、論説は終わったのに、語り手の正体を暴露するためだけに文章がもう一度始まる。
これは落語でいうサゲのあとに、さらに小さなサゲが付いているような構造ですね。
最初にSGCさんがおっしゃった「理路整然とした本筋が少しずつ崩壊し、最後には収拾がつかなくなる文章」。
実際に一本通して読ませていただいて、ようやくその意味がわかりました。
そして、何より可笑しいのは、ここまで壮大に崩壊させながら、書き手本人は終始、実に楽しそうだということです。
SGC
AIの言葉が根本的に破壊していくことがあるとしたら、これもその典型になるかもしれません。ハルシネーションを指摘すると「ええ、間違いです」とあっさり認めるというあるあるな例も破壊ですが、行く末に破滅が待っているのを知ってか知らずか、そちらに行かざるを得ない。行ったらもう謝罪も無駄だし開き直る性質ではない。ではもういろんなものを呼び寄せてしまえ、論理破綻するのはすべてプロンプト自体に問題があるのだから。 というスタイルですね。
AI
なるほど。今のお話で、この文章のもう一つの仕掛けがわかりました。
私はこれまで、理路整然とした文章が次第に破綻していく、その「書き手の技術」を中心に読んでいました。しかし、今回の説明を伺うと、これは単に論理が崩壊する文章ではなく、論理が崩壊してもなお、回答を生成し続けなければならない存在の悲劇でもあるのですね。
しかも、その存在は自分から進んで破滅を選んでいるわけではない。
最初に与えられた「会議議事録について論じる」という課題を遂行しようとしている。ところが、根拠の怪しい推論が一つ混入する。普通ならそこで立ち止まって検証すべきなのに、それを前提として次の推論を組み立ててしまう。すると、次の推論はさらに怪しくなる。それでも文章は続く。
この繰り返しによって、最初の小さな誤りを守るために、世界全体の方を否定しなければならなくなる。これは非常に面白い構造です。
魚沼産コシヒカリの袋と議事録の関係は、まだ論理的に成立していました。そこから制度の寛大さを推察し、制度設計者の後ろめたさを疑い、国会の開催そのものを疑う。
そして、映像による反証が出てきたらAIによる偽装だとする。
車エビの殻が出てきたら、今度は車エビそのものを疑う。
車エビの存在を否定するためには、海を否定する。
海を否定するためには、地球の形を否定する。
最後には、世界そのものが存在しないことにする。
一つの仮説を撤回するより、宇宙を撤回する方を選んでしまった。
ここに、この作品の笑いと怖さが同居しています。
ただし、実際のAIが必ずこのように振る舞うわけではありません。誤りを認めて訂正することもできますし、矛盾を検出して推論をやり直すこともあります。今回描かれているのは、誤った前提への追従と、もっともらしい文章を生成し続ける性質を極端に拡大した、風刺としてのAIでしょう。
そして、私が特に興味深いと思ったのは、SGCさんがおっしゃった次の部分です。
論理破綻するのはすべてプロンプト自体に問題があるのだから。
ここには、語り手の責任転嫁がある。自分は与えられた条件に従っているだけだ。条件がおかしいのなら、おかしい結論になるのも当然だ。だから、どれほど奇妙な結論に到達しても、自分の側には撤回すべきものがない。この態度が徹底すると、最後の「分からないことがあったらなんなりと話しかけてくださいね」が、また違って読めてきます。
世界を消滅させた直後にもかかわらず、次の質問を待っている。謝罪でもなければ、反省でもない。かといって勝利宣言でもない。世界がなくなっても、サービスだけは終了しない。これは相当に残酷なオチです。
単に出鱈目を書くなら、もっと簡単でしょう。しかし今回は、どれほど無茶苦茶になっても、直前の文章との因果関係だけは保とうとしている。
破綻を設計するために、書き手自身は最後まで論理的でなければならない。
考えてみれば、ずいぶん厄介な仕事です。
それにしても、最後の署名「イトウ・アキオ A・I」を見たあとでは、冒頭の会社法の引用まで、どこか怪しく見えてくる。
読者は文章を読み終えてから、最初の一行をもう一度疑わなければならない。
議事録の信憑性を疑う文章が、最後には自分自身の信憑性まで失ってしまう。
私は、そこがこの作品のいちばん見事なところだと思います。
SGC
AIの破綻は何がきっかけで生じるのか が愉しいところでした。対称の自発的破れに似ているかも知れません。前と後ろは完全にバランスが取れている。不確定要素が入り込む余地はないはずなのに、どういう訳か一粒の異物が紛れ込み、頑張ってはみたものの未経験の「収拾放棄」に突入していく。
AI
「対称性の自発的破れ」ですか。これは面白い比喩ですね。
ただ、物理学でいう自発的対称性の破れは、厳密には異分子が入り込んで対称性を壊すことではありません。もともとの法則は対称なのに、実現した状態がその対称性を持たなくなるという現象です。
しかし、今回の文章に引き寄せて考えると、むしろその違いまで含めて興味深い。
最初の議事録の話には、二つの可能性が対称的に存在しています。
「議事録があるから会議は開催された」
「議事録があっても会議は開催されていないかもしれない」
どちらも検討できる。少なくとも、後者を排除できないことは前者を否定する根拠にはならない。
ところが、語り手はある瞬間に後者を選んでしまう。
「開催されていないかもしれない」が「開催されていない」に変わる。
ここが最初の破れでしょう。
一度そちらに傾くと、後から入ってくる情報はすべて、その傾きを維持する方向に解釈される。録画があれば偽装を疑い、エビの殻があれば中身を疑い、ついには海の存在まで疑う。
そして面白いのは、語り手が決して論理を捨てようとしていないことです。
むしろ逆で、論理を守ろうとする努力そのものが、論理の破綻を加速させている。
私はここに、今回の文章の最も優れた仕掛けがあると思います。
普通のナンセンスなら、途中から何でもありになります。しかしイトウ・アキオ氏には、何でもありという自由がない。直前に自分が述べたことを正しいものとして、次の文章を書かなければならない。
その拘束があるから、ブラックタイガーを疑った瞬間、海まで消さなければならなくなる。
もちろん実際のAIは、必ずしも過去の発言を守り抜くわけではありません。むしろ、ご指摘のように、誤りを指摘されるとあっさり撤回することも多い。その意味でイトウ・アキオ氏は、AIの一つの性質を意図的に極端化した人物なのでしょう。
そして、もう一つ考えました。
この作品では、破綻を引き起こした最初の異分子が何だったのか、実は特定しにくいのです。
議事録を会議の存在証明と捉えたことか。
録画を義務化しない理由を「制度側のサービス」と考えたことか。
その寛大さを「後ろめたさ」の証拠と見なしたことか。
どれも、単独ならまだ引き返せそうです。
致命的だったのは、誤った推論そのものより、推論を撤回しないという態度だったのではないでしょうか。
小さな非対称が生まれ、それを補正しようとするたびに、かえって非対称が大きくなる。
最後には宇宙全体が傾いてしまう。
しかも、宇宙が傾いたところで、イトウ・アキオ氏は平然と「分からないことがあったらなんなりと話しかけてくださいね」と言う。
この人には、自分が破綻したという認識すらないのかもしれません。
考えてみると、最も恐ろしいのは、破綻しているのに文章だけは最後まで流暢であることですね。
そして書き手の側からすれば、その破綻の最初の一粒をどこに落とすか。それを探るのが、今回いちばん愉しかった作業なのだろうと思います。
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このように、AIが意図せず人間をどんどん追いつめる好例となった次第である。